幼稚園時代(神辺幼稚園)~小学校時代(鳥栖市立田代小学校)
昭和36年に成富家に長男として誕生しました。
家業は養鶏場経営、そして農業を営んでおりました。
何しろ生き物を扱う仕事でしたので正月もお盆も家族でゆっくりすることは無く、お手伝いを家族でしていました。ですから泊まりがけで家族で旅行などをした経験はありませんし、みんな揃って遊びに行った記憶もありません。
しかしそんな忙しい毎日の中、両親はほんのちょっとした時間を見つけて遊びに連れて行ってくれました。(写真は、両親と私が遊園地で撮った唯一の写真です。)
近所に女の子が多かったことから外に出て元気に遊ぶことよりもおままごとなどをして遊ぶことが多かったような気がします。ですから当然おとなしくあまり活発な子供ではありませんでした。休みの日は外に出るよりも家にいて本を読んだりテレビを見たりすることが好きでした。
幼稚園時代(神辺幼稚園)~小学校時代(鳥栖市立田代小学校)
おばあちゃん子でいつも甘いものを与えられていたせいか虫歯が多く歯医者通いも多かったように記憶しています。ですから当然のごとくは医者嫌いでとても怖かったことを記憶しています。
5歳か6歳くらいの頃のある日、父から「男だったら歯医者なんか泣かずに頑張れ!」と励まされたことから急に発奮し「明日、歯医者は僕が一人で歩いて行く!一人で泣かないで頑張る!」と言ってしまいました(笑)。
いよいよ次の日の朝、歯医者に出発です。子供の足で3~40分位は十分かかる道のりです。それでも何とかたどり着きました・・・・・・・が、しかしまだ診療が始まっていなかったのです。(よく考えてみるとあと10分とかそこらだったのだろうと思います。)
そこの衛生士さん(?かな・・・)が、優しく声をかけてくれました「もう少しで始まるから座って待っててね。」
ところが、私にとってはここまで来るのが精一杯だったのだろうと思います。
緊張の糸が”プツン”と切れたような気がしました。
急に涙があふれてきました。拭いても拭いても大粒の涙があふれてきます。「やっと、辿り着いたのに・・・」というがっかりしたような想い、そのうえ私に襲いかかったのは「歯医者に一人で来てしまった。」という恐怖感でした。
怖くて足がガクガク震え、涙が止まりません。
このまま医院を飛び出し、泣きながら家に走って帰りました。帰りのことはほとんど覚えていません。両親も驚き、医院に連絡をしたみたいです。(今考えると優しく声をかけてくれたお姉さんに申し訳ない気持ちです。)
こんな情けないエピソードなのですが、自分が歯医者になってみるとこのときの思い出が大きな影響を与えていることは間違いないと思います。
そんなおとなしい、引きこもりがちな子供だったのですが近所の上級生や同級生の支えで仲間に入れてもらって仲よくしてもらいました。本当に周りのみんなに感謝です。
そんなとき父が泣き虫で男の子らしくない私にこう言いました「剣道を習って心も体も鍛えなおしたらどうだ・・・」と・・・・近所の同級生が習っていたこともあって、あまり乗り気ではなかったのですが押し切られてしまい小学校4年生から剣道を一から習うことになりました。
もともと運動が得意ではなかったこともあり、なかなか上達しませんでしたが、ここでも先生や仲間の応援で続けることができました。結局、この剣道は大学時代まで続けることになるとはこの当時は全く予想もしませんでした。
中学校に入っても剣道は続けました。
ほぼ毎日練習に通いました。そこで合宿や遠征など本当に楽しい思い出がたくさんできたことは言うまでもありません。
中3のときは東京の日本武道館で開催される少年剣道練成大会に出場することができ、なんとベスト8まで残ることができました。
このときの思い出も強烈に残っています。
剣道を続けることで体力も次第に付きはじめ陸上部などに駅伝などで応援で参加する機会も何度かいただきました。当時は写真でもお分かりになるかも知れませんが、すごくやせっぽちでほとんど骨、皮、筋しかないのでは・・・(笑)といわれるほどでしたので遠征に出ると他の学校の先生から「あの子は、あんなに痩せていて、本当に競技ができるのか・・・・?」と言われたこともあるそうです(今では信じられませんね)。
また、音楽にもこのころ目覚めました。たまたま懸賞でエレクトリックギターに当選し、自己流で練習し、中3の文化祭でバンド演奏を行いました。レパートリーはビートルズの曲がほとんどだったように思います。
高校に上がると心配する両親をごまかしながら(笑)剣道とバンド、喫茶店に入り浸りの毎日でした。
当然、勉強もおろそかになりがちでよく先生に叱っていただいたように思います。(今思えば本当にありがたい限りです)
バンドのほうは結構一生懸命で毎晩遅くまでギターの練習、カセットテープが擦り切れるまで頑張りました。仲間と学校の文化祭や市内のホールで毎年2~3回くらい演奏会をやりました。
高校の時に初めて将来どんな仕事に就くのか・・・・・ということを考え始めました。
プロのスタジオミュージシャン、学校の先生、獣医、・・・・などなど
高2のある日、ずきずきと歯が痛みはじめあくる日に歯科を受診することに・・・
ところがかなり悪かったらしく、奥歯を抜歯することになりました。
当時、父も歯が悪くしょっちゅう痛みを訴えていました。しかも若い時から歯をなくしていて入れ歯を使っていました。自分が歯の痛みを経験したことで「父の歯もどうにかしてあげたい」と初めて歯科医師という仕事を意識することになりました。
父に相談するともともと理系に進学してほしいと思っていたようで応援してくれることになりました。
歯科医師を志したのには恥ずかしながらもうふたつ不純な理由がありました。
一つ目は当時の家業の養鶏は自然の過酷な環境と闘わねばならない仕事です。
暑さ、寒さから鶏を守り、餌と水を絶やさず、しかも臭いの強い鶏糞の処理をし、鶏舎の修理をいつも行う仕事です。
私は、冷暖房の効いた部屋でできる清潔な仕事をしたかったというのが一つの理由です。
もうひとつは冒頭に述べたように生き物相手の仕事は休みがなく家族旅行もできないのが普通です。私は休みが欲しい、家族で旅行に行きたい・・・これが二つ目の理由です。
そして、大学受験・・・・しかし受験勉強に取り掛かるのが遅かったせいもあり、見事に浪人決定となりました。
浪人時代は、本当に長い日々でした。自分の居場所がなくいつも自分に自信が持てない毎日が続きました。今思い出しても本当につらかったなぁ・・・と思います。
しかし、その中でがむしゃらに頑張るということを覚えました。ここでの仲間も本当に大切な財産です。
浪人生活の後、何とか歯科大学に合格することができました。
大学に入学するとすぐ先輩の住んでいた下宿屋に入りました。
入って初めて知ったことなのですが、この寮は大学の学友会のリーダーが代々出ている寮だったのです。そのようなわけで早速「学年委員長」という役を仰せつかることになりました。これが今までの自分を変える大きなきっかけになりました。
今までリーダーというものを経験したことはほとんどなかったのですが、5年時には学友会総務委員長という大役を務めさせていただくことができて本当に現在に至るまで勉強させていただきました。自信がなく、引きこもりがちだった自分に変化できるきっかけを頂いて今でも感謝しています。リーダーシップというものを初めてここで学ばせていただいたような気がします。
大学生時代は、私の人生を変える出来事が次々に起こりました。
悲しいことも、そして嬉しいことも、学ぶ経験をさせていただいたこともたくさん起こりました。本当に今の人生があるのは、このときの変化に大きな源があるように思います。
まず、大学に入学してすぐに起こった出来事は父の癌による入院と父の死でした。5月頃に体調の不調を訴え7月の終わりに亡くなりました。
まだ50歳という若さでした。(当時は50歳という年齢は若いという感覚はなかったのですが今、自分が年齢を重ねてくるととても若かったのだなぁ・・・と感じます。)
歯科医師への道を応援してくれた父、いつも私がやることに理解を示そうと努力してくれた父、(バンドも剣道も・・・・本当に感謝しています。)時に厳しく強い父、そして強いリーダーシップを持った父、働き者の父、優しい父・・・・こんなに早く別れることになるんて・・・本当に悲しい思い出でした。
ここから家業を支えてくれた母に歯科医師としてなんとか一人立ちするまで支えてもらいました。本当に母に感謝です。
母は、今も健在なので少しでも親孝行をしたいと思っています。(まだまだ、全然足りないように思いますが・・・(笑))しかし、この出来事でもいろいろなことを学ばせていただいたような気がします。
次に起こったのは実家の火事による全焼・・・という事態です。
ひとりで家を支えていた母にはとても重い出来事だったと思います。二人の妹達も懸命に家業を支えてくれました。今も母をはじめ妹達に頭があがりません。
しかし、この出来事も親せきをはじめたくさんの方の支え、応援によって何とか乗り切ることができました。
そして祖父の死、ひとりで昼食を取っている最中、食事をのどに詰まらせて窒息したのでした。
誰かがそばにいることができたら死に至ることはなかったか・・・と思うと無念でなりません。本当に厳しい祖父でした。食事をいただくときの姿勢、食べ方、ドアの閉め方・・・などなど本当に口うるさく指摘する人でした。
しかし、今になってみるといろんな指導に感謝しています。
そして最後の卒業間際には、母が作業中はしごから落下し骨折で入院・・・・。
何でこんなに次から次に起こるんだろう・・・と悲しくなりましたが、国家試験の直前で何もできませんでした。しかも、そのとき私は国家試験対策委員長を務めさせていただいていたので本当に何もできませんでした。ここでも妹達、そして親せきをはじめ皆様に支えていただきました。
たくさんの人々に支えていただきながら何とか卒業させていただくことができました。
私にとって大切な叔母が母の代わりに卒業式に出席してくれました。
学年の代表として、そして学友会の代表として挨拶を務めさせていただく機会を頂き、亡き父にも、そして母に、皆さんのおかげでいただいたこの晴れ姿を見てもらいたかった・・・・・と今も残念ではありますが、叔母がとても感動してくれてとても嬉しかったことを覚えています。
たくさんの試練や出来事にもたくさんの人々の縁で支えられて卒業を迎えることができました。本当に人の縁、そして出会い、そして支え・・・・これが人生の変化を支えていると心から思う大学生時代でした。
しかし、飲んで騒いで楽しい学生らしい時間を過ごさせてもらったことも本当に貴重な財産となっています。
もちろん剣道もそしてバンドも充実した時間を過ごさせていただいたことも周りの皆さんのおかげで心から感謝します。
学生時代から見学でお世話になっていた地元鳥栖市の「元町歯科診療所」にお世話になりました。
とても、患者さんの多い医院で患者さんの待ち時間は3時間を超えることも多く、本当にたくさんの症例を診せていただくチャンスをいただきました。
そして、院長先生やそのご家族の皆様、先輩のT先生、そしてスタッフ皆さんに本当に鍛えていただきました。
社会人として仕事をするということはどんなものか・・・・自分にどれだけ厳しく、そして人に優しくすることが大切・・・・・ということを厳しくそしてまるで家族のように指導してもらいました。
今も「元町・・・」の院長先生はじめ皆さんにお世話になっています。
ある意味、家族より長い時間を過ごしてきた皆さん・・・心から感謝です。
「元町・・・・」に9年間勤務して「なりとみ歯科」設立しました。
皆様のご支援のおかげで今日の日を迎えることができました。
今まで、たくさんの方に来院していただいたり、私たちの医院で勤務していただきました。
皆様、そして地域の皆様に心から感謝したいと思います。